札の辻の横断陸橋を渡るとき東京タワーが見えました。いよいよ東京に来たという実感がわきました。勝海舟と西郷隆盛が江戸開城にあたって会見した薩摩藩邸を通り、増上寺にお参りしました。増上寺は家康以来の徳川家の菩提寺で、浄土宗七大本山の一つです。明徳4年(1393)聖聡上人によって開かれた寺です。
勝と西郷の会見の地 増上寺大門 増上寺歴史さんぽ
2026年2月13日金曜日
2026年2月12日木曜日
東海道五十三次 川崎宿から日本橋まで歩く(10)高輪大木戸跡
高輪大木戸跡まで来ました。宝永7年(1710)に芝口門にたてられ、享保9年(1724)に現在地に移された。道幅約6間(約10m)の急東海道の両端に石垣を築き、夜は閉めて通行止めとしていたようです。現在は片方しか残っていません。石垣は大きな石の切り込みはぎで、隙間なくきっちりと積まれていました。
高輪大木戸跡案内板石垣が残る 大きな石材で切りこみはぎできっちり積まれている
2026年2月11日水曜日
東海道五十三次 川崎宿から日本橋まで歩く(9)泉岳寺
品川宿を抜け、高輪に入りました。高輪には泉岳寺があります。泉岳寺は赤穂の城主、浅野家の菩提寺で、浅野家代々の墓と、あの忠臣蔵の四十七士の墓があります。線香をお供えしてお参りしました。墓の近くには吉良上野介の首を洗ったといわれる首洗い井戸もありました。
泉岳寺の門をくぐる四十七士の供養塔や墓 首洗い井戸
2026年2月10日火曜日
東海道五十三次 川崎宿から日本橋まで歩く(8)品川宿
品川橋を渡りました。この橋は北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ、江戸時代には境橋と呼ばれていました。本陣跡、土蔵相模跡などの案内板は立てられていますが、建物は残っていません。土蔵相模で高杉晋作や久坂玄瑞らが密談し、イギリス公使館に焼き討ちをかけたのだそうです。問答河岸の碑がありました。三大将軍家光が東海寺を訪れた際に、河岸まで見送りに来た沢庵和尚に「海近くして東(遠)海寺とは如何に」と問うと、和尚は「大軍を率いて将(小)軍というがごとし」と答えたという場所です。
2026年2月9日月曜日
東海道五十三次 川崎宿から日本橋まで歩く(7)品川寺
今回の東海道五十三次歩き2日目は品川宿から歩き始めました。最初に立ち寄ったのは品川寺(ほんせんじ)です。品川寺は平安時代前期に開創され、品川の地名の由来となった、品川区で最古の寺です。この寺には洋行帰りの鐘がありました。江戸時代末期に行方不明になりましたが、ジュネーブのアリアナ美術館にあることが分かり、品川寺の先代住職が返還を求め、昭和5年5月5日に里帰りをした鐘です。この寺には江戸六地蔵の内の一体が安置されていました。
品川宿を歩く 江戸六地蔵のうちの一体2026年2月8日日曜日
東海道五十三次 川崎宿から日本橋まで歩く(6)鈴ヶ森刑場跡
東海道沿いに鈴ヶ森刑場跡がありました。この刑場は慶安4年(1651)江戸幕府により設けられました。八百屋お七もこの刑場で処刑されたそうです。刑場跡には処刑に使用された台石や井戸、供養塔などが点在していました。近くに涙橋がありました。鈴ヶ森刑場で処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸から護送されてきた。この時、親族らがひそかに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、涙橋と呼ばれるようになったということです。
鈴ヶ森刑場遺跡 案内板 処刑に使用された台石や井戸、供養塔などが点在 涙橋
2026年2月7日土曜日
東海道五十三次 川崎宿から日本橋まで歩く(5)磐井神社
磐井神社にお参りしました。この神社は平安時代後期に編纂された延喜式に記載されている古社です。この神社の狛犬は阿形、吽形共に3匹の子狛を連れている子だくさんの狛犬です。子狛をかわいがっているほほえましい狛犬です。道路拡張のため境内の外の歩道上になってしまいましたが、磐井の井戸がありました。この井戸は東海道往来の旅人に利用されたもので、この水を飲むときは、心正しいければ清水、邪心があれば塩水になるという言い伝えがあるそうです。
磐井神社3匹の子連れ狛犬(吽形) 子だくさんの狛犬(阿形) 子狛が背中にも乗っている
磐井の井戸
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