ついに私たち東海道五十三次グループ一行は京都三条大橋から東京日本橋まで完歩しました。みんなで横断幕を持って記念写真を撮りました。私は残念ながらどうしても歩けなかった区間があり、今後の課題となりましたが、何人かの方は完歩され喜びも一入のようでした。私もその場に立てて感慨深いものがありました。日本橋には泰平の世に現れるという麒麟像や東京を守護する獅子像が印象的でした。また日本橋は日本の国道の起点なので道路元標のレプリカが東詰めに置かれていました。
日本橋に到着「三条大橋から日本橋まで完歩」 麒麟像 獅子像 日本国道路元標歴史さんぽ
2026年2月15日日曜日
2026年2月14日土曜日
東海道五十三次 川崎宿から日本橋まで歩く(12)銀座
いよいよ銀座に着きました。銀座は日曜日は歩行者天国になっているので、道の真ん中が歩けます。銀座は慶長7年(1612)に、駿河の銀貨鋳造役所の銀座を二丁目左側に移したことから、明治2年(1869)以降、ここが銀座と呼ばれるようになったということです。京橋の親柱がが立っています。京橋は江戸時代から日本橋とともに有名な橋で、京橋川が流れていました。昭和34年(1959)に川は埋め立てられたが、親柱はの残されています。江戸歌舞伎発祥の地碑もあります。ここは寛永元年(1624)に猿若座の猿若勘三郎が中橋南地(京橋)で櫓を上げたのがはじまりだそうです。ヤン・ヨーステン記念碑があります。慶長5年(1600)一層のオランダ船が豊後国臼杵に漂着したが、その船に乗っていたヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスは幕府の外交顧問として重用されました。ヤン・ヨーステンが屋敷地を拝領したのが「八代洲河岸」であった。それが八重洲となったということです。
京橋の親柱 江戸歌舞伎発祥の地 ヤン・ヨーステン記念碑2026年2月13日金曜日
東海道五十三次 川崎宿から日本橋まで歩く(11)
札の辻の横断陸橋を渡るとき東京タワーが見えました。いよいよ東京に来たという実感がわきました。勝海舟と西郷隆盛が江戸開城にあたって会見した薩摩藩邸を通り、増上寺にお参りしました。増上寺は家康以来の徳川家の菩提寺で、浄土宗七大本山の一つです。明徳4年(1393)聖聡上人によって開かれた寺です。
勝と西郷の会見の地 増上寺大門 増上寺2026年2月12日木曜日
東海道五十三次 川崎宿から日本橋まで歩く(10)高輪大木戸跡
高輪大木戸跡まで来ました。宝永7年(1710)に芝口門にたてられ、享保9年(1724)に現在地に移された。道幅約6間(約10m)の急東海道の両端に石垣を築き、夜は閉めて通行止めとしていたようです。現在は片方しか残っていません。石垣は大きな石の切り込みはぎで、隙間なくきっちりと積まれていました。
高輪大木戸跡案内板石垣が残る 大きな石材で切りこみはぎできっちり積まれている
2026年2月11日水曜日
東海道五十三次 川崎宿から日本橋まで歩く(9)泉岳寺
品川宿を抜け、高輪に入りました。高輪には泉岳寺があります。泉岳寺は赤穂の城主、浅野家の菩提寺で、浅野家代々の墓と、あの忠臣蔵の四十七士の墓があります。線香をお供えしてお参りしました。墓の近くには吉良上野介の首を洗ったといわれる首洗い井戸もありました。
泉岳寺の門をくぐる四十七士の供養塔や墓 首洗い井戸
2026年2月10日火曜日
東海道五十三次 川崎宿から日本橋まで歩く(8)品川宿
品川橋を渡りました。この橋は北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ、江戸時代には境橋と呼ばれていました。本陣跡、土蔵相模跡などの案内板は立てられていますが、建物は残っていません。土蔵相模で高杉晋作や久坂玄瑞らが密談し、イギリス公使館に焼き討ちをかけたのだそうです。問答河岸の碑がありました。三大将軍家光が東海寺を訪れた際に、河岸まで見送りに来た沢庵和尚に「海近くして東(遠)海寺とは如何に」と問うと、和尚は「大軍を率いて将(小)軍というがごとし」と答えたという場所です。
2026年2月9日月曜日
東海道五十三次 川崎宿から日本橋まで歩く(7)品川寺
今回の東海道五十三次歩き2日目は品川宿から歩き始めました。最初に立ち寄ったのは品川寺(ほんせんじ)です。品川寺は平安時代前期に開創され、品川の地名の由来となった、品川区で最古の寺です。この寺には洋行帰りの鐘がありました。江戸時代末期に行方不明になりましたが、ジュネーブのアリアナ美術館にあることが分かり、品川寺の先代住職が返還を求め、昭和5年5月5日に里帰りをした鐘です。この寺には江戸六地蔵の内の一体が安置されていました。
品川宿を歩く 江戸六地蔵のうちの一体
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