2015年7月31日金曜日

茅葺屋根の家(1)

 茅葺屋根の家が少なくなっています。7月20日、まだ茅葺の家が残っていると聞いたので、東広島市豊栄町から三原市大和町方面に写真を撮りに行きました。たまたま通りかかった池に紅白のスイレンが咲いていたので、これもカメラに納めました。名前は分かりませんがきれいなトンボも飛んできました。
東広島市豊栄町の茅葺屋根の家①

東広島市豊栄町の茅葺屋根の家②

豊栄町の池のスイレン

豊栄町の池のスイレンにきれいなトンボが飛んできた

2015年7月30日木曜日

地御前 宮島往来を歩く

 地御前神社から東に宮島往来を少し歩いてみました。西国街道からは外れますが、地御前神社や宮島に参拝する人々はこの道を通っていたようです。往来にはウダツの上がった町屋が残っています。西向寺の山門前を通りかかったところ、境内に大きな松があるのが見えました。境内一杯に伸びた立派な枝ぶりの松がありました。樹齢300年だそうです。近くに広島新四国八十八ヶ所第五番霊場の観音堂がありました。地御前漁港に行ってみると、ホタテガイの貝殻に針金を通した垂下連が山積みされていました。地御前はおいしい牡蛎の養殖で有名な所です。
ウダツの上がった町屋が残る宮島往来

西向寺山門

樹齢300年の松

見事な枝ぶり

広島新四国八十八ヶ所第五番霊場 観音堂
地御前漁港


ホタテガイの貝殻に針金を通した牡蛎の垂下連が山積みされていた。採苗用でしょうか?

2015年7月29日水曜日

地御前神社を訪ねて(3)

 嚴島圖會には地御前神社社殿を少し東に行った場所の絵図もあります。当時はこの辺りも地御前神社の境内だったようです。そこには釈迦堂や大歳神社が描かれています。行ってみると大歳神社は絵図の通りの位置にありました。天保9年(1838年)に奉納された狛犬がいました。「嚴島圖會」が刊行された2年後に奉納されたので絵図には描かれていません。釈迦堂の位置が違うようです。どうも御旅所や釈迦堂があった位置に地御前小学校が建ち、現在地に移築されたようです。地御前小学校の敷地の道路に面したところに大イチョウが立っています。上の方は折れていますが大きな幹です。廿日市市の天然記念物に指定されています。樹齢何年位でしょうか。絵図にもこの位置に大きな木が立っていますからこの木でしょうか。地御前小学校の東端に小林千古生誕の地碑がありました。小林千古(1870~1911)は明治中期にいち早く海外に学んだ画家です。


地御前社絵図(嚴島圖會より)

釈迦堂

大歳神社

大歳神社狛犬(天保九年奉納)

廿日市市天然記念物の大イチョウ(地御前小学校敷地内)

小林千古生誕の地碑

2015年7月28日火曜日

地御前神社を訪ねて(2)

 地御前神社前の海岸は雁木が作られており、きれいに整備されています。管弦祭にはここに宮島から管弦船がやってきます。鳥居前には玉乗り型の狛犬がいます。大正2年に奉納されたもので、「厳島圖會」には当然描かれていません。境内にある手水鉢は宝暦6年(1756年)に奉納されたもので「厳島圖會」に描かれています。本殿は宝暦5年に焼失し宝暦10年に再建されたものだそうですが、右側が本宮本殿、左側が客人本殿で平安末期の形式を伝えている貴重なものです。道路脇の境内には水準点がありました。
地御前海岸

鳥居の前には玉乗り型の狛犬(大正2年奉納)

手水鉢 宝暦6年(1756年)奉寄進

本殿は本宮本殿、客人本殿に分かれている。平安末期の形式を伝えている貴重な建物

道路脇の境内に水準点

2015年7月27日月曜日

地御前神社を訪ねて(1)

 古本屋さんで手にした天保7年(1836年)に刊行された「嚴島圖會」(復刻版)に地御前社の図がありました。現在と比べてみたくなって訪ねてみました。嚴島圖會では海上に鳥居があり松林、海辺に社が建っています。行ってみると現在は道路を挟んで社殿が建っていました。地御前神社は厳島神社と海を挟んで対の形で同時期に創建されたようです。


地御前社(嚴島圖會より)

地御前神社社殿

地御前神社(かつてはこの辺りまで海だった)

長い拝殿

拝殿内部

東側から撮影

2015年7月26日日曜日

竜王公園夏まつり(2015)

 7月25日、今年も恒例の「竜王公園夏まつり」に行きました。6時30分から8時までオカリナの演奏やウクレレの弾き語り、ベリーダンスの鑑賞をしたり、うどんやかき氷等をを食べたりしながら、広島港で打ち上げられる「広島みなと夢花火大会」の花火を待ち、8時からビルの間から見える花火をゆったり楽しもうという祭りです。少し遠いので、花火が上がって大分後にドーンと音がするという調子で迫力は欠きますが、きれいです。夏の夕べを楽しむことができました。
オカリナの演奏

ウクレレの弾き語り

それぞれ花火を観る場所を陣取って待つ

ベリーダンスの頃には日が暮れて花火への期待が高まる

少し遠いがビルの間から上がる花火を楽しむ

花火が上がって大分時間が経ドーンと音がする

2015年7月25日土曜日

安佐南区緑井胡神社 水準点

 安佐南区緑井の佐東公民館の近くの旧国道54号を歩いていると、水準点の表示が立っている祠がありました。胡神社のようです。水準点にはカバーがかぶせてありました。このあたりは七軒茶屋という地域で江戸時代には七軒の茶屋があり、市の立つ出雲・石見街道筋の栄えた場所だったようです。
佐東公民館の近くにある胡神社

胡神社の祠

一等水準点(10、59m)
旧国道54号(雲石路)沿いに建つ古民家

2015年7月24日金曜日

安佐南区宇那木神社を訪ねて

 少し日にちは遡りますが、7月13日安佐南区緑井の宇那木神社にお参りしてきました。鳥居、標柱の前で玉乗り型の狛犬が迎えてくれました。万延元年(1860年)に奉納されたものです。一枚石の立派な石段を上っていくと社殿がありました。宇那木神社は鎌倉時代末期に安芸の国の守護として銀山城を築いた武田信宗が甲斐の国から浅間神社の御神霊を分祀して勧請し建立した神社です。  昨年8月20日の土砂災害では社殿は被害を逃れましたが、境内へ続く車道やトイレが被害をうけたようです。裏山の墓地は大きな被害を受け現在修復工事中でした。

宇那木神社

宇那木神社狛犬(阿形)

宇那木神社狛犬(吽形)

宇那木神社石段

宇那木神社社殿

裏山の墓地は昨年8月20日の土砂災害で崩れ、現在復旧工事中

2015年7月23日木曜日

萩往還を歩く 防府天満宮~三田尻(9) 三田尻御舟倉跡

 三田尻御茶屋跡からおよそ500m歩くと、三田尻御舟倉跡に着きます。江戸時代中期頃まで参勤交代はここから江戸に向けて船出しました。しかし元禄元年(1688年)以降、しだいに周りは埋め立てられ、一本の水路で海とつながるようになっていったようです。明治以降御舟倉は廃止となり、水路も暗渠となり現在は池のようになっています。これで萩往還を完歩したことになります。萩からここ三田尻までほぼ直線で結ぶ道だけに、険しい坂道、山道の連続で藩主の駕籠を担いでの道中は乗る藩主も御供の人々も大変だったことでしょう。この大変さが幕末討幕を決意させる伏線になったのかも知れないと実際に歩いてみて実感できました。やまぐち萩往還語り部の会から完歩証明書をいただきました。完歩と言っても、主な見どころを4回に分けて歩いただけですから、全行程を歩いたのではありません。機会があったら挑戦してみたいと思います。スタンプカードに「飛耳長目」と書かれています。出典は中国の古典「管子」に由来する言葉のようですが吉田松陰が松下村塾で塾生達に「耳を飛ばし目を長くして、できるだけ情報を入手し将来への見通し、行動計画を立てなければならない。」と情報の重要性を説いていたようです。往還道ウォークを通して親切に説明してくださった現地ガイドのみなさんに感謝です。
三田尻御船倉跡

現在は家に囲まれてしまった御船倉跡


萩往還を歩くともらえるスタンプカード「飛耳長目」

萩往還を完歩するともらえる完歩証明書

2015年7月22日水曜日

萩往還を歩く 防府天満宮~三田尻(8) 三田尻御茶屋(英雲荘)

 三田尻御茶屋は、萩藩2代藩主毛利綱広が承応3年(1654年)に設置した萩藩の公館で、藩主の参勤交代時や迎賓に使用され、萩~三田尻間の萩往還の終点として、歴史上重要な役割を果たしました。現在まで7代藩主毛利重就の隠居場となったり、13代藩主毛利敬親により、大規模な改修が行われたりしました。文久3年の政変で京都を追われた三条実美ら七卿もここに滞在しました。昭和14年毛利家より防府市に寄付され昭和16年英雲荘と命名されました。ふすまの模様は毛利家の裏紋のオモダカの模様や美しい扇模様が復元されています。
三田尻御茶屋(英雲荘)

床の間(扇子紋様)

毛利家の裏紋のオモダカ紋様のふすま


説明板の三田尻御茶屋(防州秀景図)