2015年2月7日土曜日

広島城の朝(6)

 2月7日今朝の広島はとても寒く、広島城の表御門橋には霜が降り白くなり滑りやすくなっていました。堀の北東ではたくさんの鵜が群れで石垣の下の方で休んでいました。まるで朝会でもしているようでした。堀の南側ではたくさんのキンクロハジロが群れで泳いでいました。よく見ると中に少しホシハジロが混じっています。西側にも別の群れがあります。1月より様子が違っていました。広島城堀の水鳥たちは季節の変化にとても敏感です。寒さの中にも春の訪れを感じているのでしょうか。
霜が降りて白くなった広島城表御門橋

広島城北東の堀の石垣にたくさんの鵜が休んでいた

朝会でもしているのか



南側にはたくさんのキンクロハジロ、中に少しのホシハジロも混じっている

キンクロハジロ

2015年2月6日金曜日

2月5日は「かよこバスの日」

 2月5日はかよこバスの日だそうです。 JR横川駅を通りかかると、いつもは車庫の中に入っている「かよこバス」が駅前広場に展示してありました。中国新聞の朝刊に2月14日に開業110周年記念イベントが開かれるため準備が進められているという記事が載っていたことを思い出し、立ち寄ってみました。かよこバスは2004年に住民たちが手づくりしたものです。実際に動かすこともできますが、公道は走ることができないそうです。駅前広場ではバスの展示とともに横川と可部の今昔展が行われており、昔の写真が展示してありました。会場には広島かよこバス活用委員会のメンバーが作られた「かよこバス」の歌が流れていました。
 杉の枝などで飾りつけられた「かよこバス」110年前の開業の時の写真を参考にして再現している。

かよこバスの運転席

2月5日はかよこバスの日(明治38年2月5日に国内初の国産バスが横川~可部間を走った)

横川と可部の今昔展が行われており、昔の写真が掲示されていた。

2015年2月5日木曜日

広島の橋(9)本川橋

 堺町と平和公園のある中島町を結ぶ本川橋は毛利輝元が広島城築城した頃、猫屋の私財によって架けられ猫屋橋と呼ばれていました。江戸時代は西国街道筋となり広島のメーンストリートでした。明治に入り本川橋と改名され明治30(1897)年トラス橋に架け替えらました。1945年8月6日の原爆により大きな被害を受け、さらにその後広島を襲った2度の台風によりついに落橋しました。昭和24(1949)年残った橋脚を利用し、鋼製の桁は光旧海軍工廠の廃材を再利用して架け替えられました。本川橋東詰には東側河岸と橋げたとのつなぎ目部分に路面用の石として使われていて、平成15(2003)年に補修されたとき、取り外された石が「被爆した本川橋の石材」として保存展示されています。


 本川橋(原爆とその後2度襲った台風により落橋。昭和24(1949)年光旧海軍工廠の廃材と残った橋脚を使用して架け直された。)

被爆した本川橋の石材(本川橋東詰)

本川橋橋脚は明治30(1897)年に造られたもの(被爆建造物)
本川橋(相生橋から撮影)

2015年2月4日水曜日

広島市中区 本川橋西詰橋脚下雁木跡

 本川橋西詰橋脚下に残る江戸時代の雁木跡に行ってみました。本川橋は江戸時代猫屋橋と呼ばれ西国街道が通っていました。毛利輝元の島普請による石組や、江戸時代の雁木造りの荷揚場や、船繋ぎの石柱が残っています。川岸にはたくさんの瓦やレンガのかけら、陶片などが散らばっていました。原爆の時川に落ちたものでしょうか。
本川橋西詰橋脚下の毛利輝元の島普請による石組や江戸時代の雁木跡

ここから荷揚げが行われた

今も残る船繋ぎ石柱や四角な彫り込み

 たくさんの瓦やレンガ、焼き物などのかけらが打ち寄せられている。原爆の時川に落ちたものか。

2015年2月3日火曜日

三原市 本郷新高山城を訪ねて(6) 詰め丸跡

 今日は節分。イワシを食べ、豆まきをして私の中に棲む「貪・瞋・痴」三毒の鬼を毎年追い払うのですが、この鬼なかなか手ごわく、すぐに帰ってきてしまいます。困ったものです。さて新高山城の続きです。本丸東端の櫓が建っていたらしい詰の丸に行く道には石垣が残っています。石を割る時にできる矢穴も見られます。三原城が建てられる時、新高山城の石はことごとく運ばれたと言われていますが、残されたものもあります。頂上からは高山城跡や本郷の街、沼田川、西国街道などが手に取るように見えます。この城が城を築くのに絶好の地だったことがよく分かります。小早川隆景もここからこの眺めを見たのかと思うと感慨深いものがありました。しかし小早川隆景というとどうも昨年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で小早川隆景役の鶴見辰吾と重なってしまうのは私だけでしょうか。頂上(詰の丸)には、たくさんの石仏群がありました。
本丸に残る石垣(矢穴も見られる)

本丸跡からの眺め(本郷の街や高山城跡が手に取るように見える)

詰の丸の石仏

詰の丸石仏

2015年2月2日月曜日

三原市 本郷新高山城跡を訪ねて(5) 匡真寺跡・二の丸・三の丸・本丸跡

 匡真寺跡に着きました。ここは小早川隆景が父元就の7回忌と母妙玖の33回忌に当たり建てた寺で三原にある宗光寺の前身の寺の跡です。寺跡にはたくさんの瓦が散らばっていました。更に上って行くと中の丸跡に来ました。ここには城内地図を入れた詳しい説明版が立っていました。中の丸の郭には随所に土塁を築き曲輪を設けてあります。防備を固める役目を果たす場所であったようです。ここから西方に向かうと西の丸、北の丸(三の丸)跡がありました。北の丸には社寺があったようです。ここから更に上っていくと、ついに本丸に着きました。思った以上に広い平坦部があり、一部に巨岩が露出した所があります。ここに近世の天守に当たる櫓が建っていたようです。
 匡真寺跡(小早川隆景が父元就の7回忌と母妙玖の33回忌に当たり建てた寺。三原宗光寺の前身。たくさんの瓦が散らばっていた)

中の丸(二の丸)跡

(中の丸)二の丸跡に建っていた城内地図

三の丸跡への道

本丸跡(東端の巨岩の上に櫓が建っていたと思われる)

2015年2月1日日曜日

三原市本郷 新高山城跡を訪ねて(4) 新高山城跡登山道 

 橘神社から、また新高山城跡に向かいます。目の前に新高山城の切り立った崖が見えます。なるほどこの城は攻めにくそうです。しばらく歩くと新高山城跡の入口に来ました。案内表示があるので迷うことはありません。登山道に入ってしばらくすると荒神社の鳥居がありました。更に上って行くと城跡のイメージ図が描いてある大きな案内版があり、よく分かりました。急な山道を登っていくと鐘の段に着きました。ここは城山にあって半ば独立した小丘で、周囲に土塁を設けた5郭を配していることから、中世初期の築城と考えられているそうです。
新高山城跡(険しく切り立った崖となっている)

新高山城跡入口

新高山城跡に向かう道脇にある荒神社鳥居



新高山城跡登山道脇に立つ説明版
新高山城跡イメージ図


鐘の段