2015年7月21日火曜日

萩往還を歩く 防府天満宮~三田尻(7) 道標→野村望東尼終焉の地→三田尻本陣→三田尻御茶屋

 まだ少し雨は残っていますが、風は弱まり歩きやすくなってきました。萩往還の表示が道にしてあり、一人で歩く人には心強いです。道標も建っています。今も昔も道標があると大変助かります。現在はナビがありどこに行くにも便利です。しかし道に迷って人に聞いたり、たまたま迷い込んだ道で素晴らしいものに出逢ったりするチャンスはなくなりました。野村望東尼終焉の地や三田尻本陣を経て着いたのは三田尻御茶屋です。現在は英雲荘として公開されているので、内部をしっかり見学します。
萩往還表示

萩往還道標

野村望東尼終焉の地

三田尻本陣

三田尻御茶屋石垣

2015年7月20日月曜日

萩往還を歩く 防府天満宮~三田尻(6) 妙見神社→楫取素彦・美和子終焉の地

 妙見神社境内には車塚という古墳もあるので、車塚妙見神社といわれています。この神社では相撲も盛んだったようで力自慢若衆が相撲と力石を肩まで上げ力比べをしていたようです。社殿前にも狛犬がいました。これも萩狛犬の形式です。池にたくさん亀がいました。妙見信仰では妙見菩薩の神使は、北の守護神の玄武(亀と蛇の合体したもの)とされ亀であることから、ここにたくさん飼われているようです。妙見神社から萩往還をしばらく歩くと楫取素彦・美和子終焉の地と書かれた案内板の前に来ました。民家に入っていくと、小さな庭があり、縁側の前に踏み石がありました。踏み石に足をおろして縁側に座っている美和子(文)の写真を見せていただきました。建物は建て替えられていますが、踏み石はそのままのようです。
妙見神社力石

妙見神社殿(ここにも萩狛犬)

池に亀がたくさんいた。(亀は妙見菩薩の神使)

楫取素彦・美和子終焉の地

建物は変わっているが、踏み石は当時のもの

2015年7月19日日曜日

萩往還を歩く 防府天満宮~三田尻(5) 天神通り→妙見神社

 萩往還は天神商店街を通ります。シャッター街となっており寂しいです。「ほうふ昭和館」というのがあり、興味をそそられますが、今回はパスして先を急ぎます。妙見神社前に来ました。狛犬がいます。これも萩狛犬のようです。尾道狛犬のように大きな玉ではなく、ソフトボール位の小さな玉に右前肢を載せています。阿形は雄です。台座に大内氏と毛利氏の家紋を組み合わせた模様が彫刻してありました。妙見信仰の篤かった大内氏を滅ぼして山口を支配した毛利氏の気配りでしょうか。
天神通り(シャッター街になっていてさみしい)

ほうふ昭和館(興味をそそられるが今回はパス)

妙見神社狛犬(阿形 雄)

妙見神社狛犬吽形(右前肢を載せている玉が小さい)

大内氏と毛利氏の家紋を組み合わせてある(毛利氏の気配り?)

2015年7月18日土曜日

萩往還を歩く 防府天満宮~三田尻(4) 萩狛犬ー石鳥居ーらんかん橋

 防府天満宮社殿から石段を下りて二の鳥居前まで来ると萩狛犬がいました。この狛犬は萩の石職人により防府・大宰府・北野天満宮に奉納されたものの一つです。萩にも腕の良い石職人がいたようです。大宰府、北野天満宮を訪ねたとき仲間の狛犬を探してみることにしましょう。北野天満宮の狛犬は禁門の変後、長州ゆかりの狛犬だというので会津藩士が倒そうとしたところ突如の雷があり、天神様の祟りと恐れた藩士が逃げ去り、破壊を免れたという逸話があるそうです。県内最古最大という石鳥居をくぐり、いよいよ往還道を歩き始めます。少し歩くと、らんかん橋まで来ました。このあたりが立市といい、天満宮の鳥居前町として最も古くから発達した宮市発祥の地です。説明板に当時の繁栄の様子を描いた防府町図屏風の写真が掲示してありました。
萩狛犬(萩の石職人により防府・大宰府・北野天満宮に奉納されたものの一つ)

二の鳥居の前後に設置された狛犬

一の鳥居は山口県最古最大の石鳥居(県指定有形文化財)寛永6年(1629年)制作

立市・らんかん橋(天満宮の鳥居前町として最も古くから発達した宮市発祥の地)

防府町図屏風(阿弥陀時蔵)説明板より

2015年7月17日金曜日

萩往還を歩く 防府天満宮~三田尻(3) 防府天満宮②

 幸い雨も小降りとなり、風も弱まってきました。今回はここ防府八幡宮から三田尻御船蔵跡まで歩きます。防府天満宮境内には勤王の志士と交わりの深かった女流歌人の野村望東尼の像と歌碑が建っていました。有名な死を直前にした高杉晋作が上の句を詠み、下の句を望東尼が詠んだという歌碑や、慶応3年に討幕軍が東上する日から7日間戦勝を祈願して1日1首句を詠み天神様に奉納したという、その初日の句の歌碑がありました。桜門を抜けると神木の大楠木がありました。樹齢800年といわれていますから、毛利元就や高杉晋作達勤王の志士達がこの木の前を通るのを見た生き証人です。毛利元就が大内氏を攻めた時本陣を設置したという大専坊がありました。
春風楼から防府市街を望む(今回はこの街の中を三田尻御船蔵跡まで歩く)

防府天満宮境内に建つ野村望東尼の像(歌人 尊王攘夷の志士たちと交わりが深かった)

歌碑(上の句を高杉晋作下の句を望東尼が詠んだ)

防府天満宮桜門

参道にある神木の大クスノキ(樹齢推定800年)

大専坊(県指定史跡)毛利元就が大内氏を攻める際に本陣を設置

2015年7月16日木曜日

萩往還を歩く 防府天満宮~三田尻(2) 防府天満宮①

 風雨の中、防府天満宮にお参りしました。防府天満宮は幕末期には「宮市天満宮」「松崎天満宮」と呼ばれていたようです。防府天満宮と呼ばれるようになったのは昭和28年からだそうです。高杉晋作もよくお参りしていたようです。振り返ると春風楼という吹き抜けの建物があります。この建物は通称通夜堂と呼ばれています。文政5年(1822年)毛利斉煕(なりひろ)により五重の塔として工事が始まりましたが、財政難で一揆も起こったりしたので中断し、やっと明治6年に現在の二層の楼閣様式として完成したのだそうです。完成当初は祈願者の通夜堂(ガイドさんは「おこもりどう」と言っておられた)として利用されましたが、現在は剣道や柔道の奉納行事などに使われているようです。堂内には見事な彫刻の絵馬が掲げられていました。中でもこの建物を見て驚いたのは床下部分です。立派な木組がありました。このような建築は見たことがありません。ガイドさんの説明で五重の塔を作る予定で、途中まで作っていた組物を床下に利用したことが分かり納得しました。歴史のいたずらとは言え面白い発想ですね。大工さんの無念さや意地のようなものを感じます。
防府天満宮社殿(国の登録有形文化財)

春風楼

建物は吹き抜けになっている(剣道の試合などにも使われる)

見事な彫刻の絵馬が掲げられている

床下には立派な木組?!

2015年7月14日火曜日

萩往還を歩く 防府天満宮~三田尻 (1)

 萩往還の防府天満宮~三田尻を歩きました。生憎の雨です。まずガイドさんに案内されたのは防府天満宮東出入り口の所にある楫取素彦・美和子(文)像です。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で小田村伊之助・文として登場している人物です。楫取素彦・美和子(文)はそれぞれ伴侶を失い明治16年再婚しました。頂いたパンフレットに文の写真が載っていました。井上真央のイメージとは少し違いますが・・・。明治になって楫取素彦は初代群馬県令を務めたり、皇女貞宮の養育主任を務めたりしましたが、晩年は防府で過ごしました。楫取素彦は皇女貞宮がわずか3歳で亡くなったので、この地に遥拝所を建て、貞宮内親王の遺物を納めました。近くにはなんでも願いが叶うという紫雲石がありました。

楫取素彦・美和子(文)像





美和子(文)萩博物館蔵

貞宮遥拝所
何でも願いが叶うという紫雲石