2014年9月30日火曜日

船上山登山(2) 船上神社

 船上神社に向かいます。船上山頂上には智積寺という大寺院がありました。1333年、この寺の前身の金石寺の本堂を行在所として後醍醐天皇が北条氏を滅ぼす謀をめぐらしたと伝えられています。その後度重なる戦乱などで衰退していたが明治11年の神仏判然令により寺を竹内にうつし、神社のみとなり船上神社と改称されたのだそうです。
船上神社に向かう道(古びた石段と石垣がある)

梵字が刻まれた石塔の台石(文保2年1318年の年号と3面に梵字が刻まれている)

船上神社(木造の鳥居は木の自然の形を生かしている。)

船上神社本殿

船上神社奥ノ院

2014年9月29日月曜日

船上山登山(1)

 9月28日山の仲間と鳥取県の船上山(615、6m)に登りました。船上山は平安時代の初期から山岳仏教が栄え大山、三徳山とともに伯耆三嶺と呼ばれ修験道の霊地でした。また元弘の変で隠岐に流された後醍醐天皇が隠岐を脱出し、名和長年に助けられ船上山合戦で北条方に勝利し建武の新政の礎となった歴史の山です。登山道では文政6年建立の一町地蔵や屏風岩、後醍醐天皇が駕籠を立てて休まれたという駕籠立て場を見ることができました。頂上は平坦地となっており少し小高い所に船上山行宮之碑が建っていました。
一町地蔵(文政6年1823年)建立

屏風岩を横に見ながらススキの登山道を登る。

駕籠立て場(後醍醐天皇が京へ遷幸される時駕籠を立てて休まれた所と伝えられている)

船上山行宮之碑

2014年9月28日日曜日

あさひが丘神楽祭り

 9月27日夜 あさひが丘団地のコープビル大ホールであさひが丘神楽祭りがありました。8時過ぎに行ってみると、あさひが丘団地中の人が集まったのではないかと思えるほどたくさんの人でホールが一杯でした。舞台では団員の熱演で会場から盛んな拍手が送られていました。団員の中には中学生もいて上手に笛を吹いていました。若い人も伝統芸能を受け継いでいるのはうれしいことですね。


白狐

恵比寿

紅葉狩り

2014年9月27日土曜日

明治時代の運動会の写真

 安芸高田市吉田町の私の実家の古い箪笥の中にあった古い写真を整理していたところ、明治41年11月23日の日付のある一枚の写真が出てきました。民家が大きく写っているので、昔の私の家かな位に思っていたのですが、どうも後ろの山の形や家の前の様子も違います。大事にとってあったところから、なにか意味のあるものに違いないと思いよく見ると万国旗が張ってあり、地面には玉入れの玉らしいものが転がっています。これは運動会の様子を撮ったものだと気がつきました。しかし吉田小学校に併合される前の丹比西小学校の位置ではありません。安芸高田市歴史民俗博物館に行き、明治時代の丹比西小学校の位置を教えていただき、行ってみました。現在は栗の木などが植えてある畑になっていました。それにしても、古い写真をよく見るとまだちょんまげの人がいたり、牛も一緒に見ていたり、子どもも、体操着ではなく着物だったりして、とても興味深いものです。祖父母が生きているうちに話を聞いておかなかったことを悔やんでいます。
明治41年の運動会の写真

現在の明治39年から昭和2年までの丹比西小学校跡地

2014年9月26日金曜日

彼岸花

 この時期彼岸花が各地で花盛りです。写欲をそそられますが、なかなか傑作が撮れません。難しい被写体ですね。各地で出逢った彼岸花を撮ってみました。

広島本川沿い

安芸高田市

安芸高田市
対馬万松院

2014年9月25日木曜日

対馬・壱岐を訪ねて(10) 少貳資時

 芦辺港から博多港に向けてフェリーに乗って帰ります。芦辺港で最後に出会ったのは壱岐守護代少貳資時です。弘安4年(1281年)19才の資時は元軍を迎え撃ち、力戦奮闘したが刀折れ、矢尽きて壮烈な最期を遂げたのだそうです。平成13年元寇から720年を記念して地域の実行委員会によって建立されたものでした。壱岐・対馬は大陸との間にあり様々な面で大切な役割を果たしてきました。元寇については「神風」が吹いたことが大きく取り上げられていますが、元寇の通り道となった対馬・壱岐での資時のような活躍があってこそ日本が守られたことを改めて思い知らされました。帰りのフェリーは晴れにも関わらず少し波が高く揺れました。古代に壱岐・対馬そして大陸に渡った人々にとって司馬遼太郎の言葉を借りると「戸板を張りあわせたような構造で、まことにかぼそい」船でこの荒海を渡ることは本当に心細い命がけのものだったことだろうと思いながら客室で横になっていました。短い滞在でしたが心に残る旅でした。
「元寇」小金丸幾久作 平成13年元寇から720年を記念して地域の実行委員会により建立された。

騎乗の壱岐守護代少貳資時は弘安の役の時(1281年)元軍と勇敢に戦い戦死した。

博多へのフェリー(約2時間の船旅 荒波で少し揺れた。)

2014年9月24日水曜日

対馬・壱岐を訪ねて(9) 壱岐の田んぼ

 壱岐は米作りのさかんな島です。しかし田んぼを見てびっくりしたことがあります。壱岐でも今が稲刈りの真っ最中。稲刈りを済ませて、「はで干し」してある田んぼもあれば、もう稲刈りの時期がきた田んぼもあります。しかし、最近田植えをしたばかりの田んぼがありました。壱岐は二期作だったかな?そんなに暖かいとは思えないけど・・・。と思っているとバスガイドさんが「あれは壱岐牛を育てるための牧草にするのです。」と教えてくださいました。壱岐では稲以外に葉たばこの栽培をしていて、収穫の終わった葉たばこを植えていた土地に稲を植え牛のエサにするのだそうです。栄養があり良い牧草となるそうです。米作り、葉たばこづくり、育牛を組み合わせてうまく農業経営をされていることが分かりました。




稲を「はで干し」しています。


田植えをしたばかりの田んぼが!?

稲刈りをするばかりの田んぼと田植えをしたばかりの田んぼが並んでいます。
壱岐牛の飼育

2014年9月23日火曜日

対馬・壱岐を訪ねて(8) 左京鼻・はらほげ地蔵

  八幡半島突端にある左京鼻に行きました。荒波にけずられた玄武岩の柱状節理が美しい左京鼻。天気が良く黒い観音柱に打ち寄せる白波、青い海が美しかったので何枚も写真を撮りました。壱岐観光の最後ははらほげ地蔵です。胸のところに丸い穴があるので「はらほげ地蔵」と呼ばれています。満潮になると頭上まで海水につかるので、胸に窪みをつけてそこに供物をあげたといわれています。
左京鼻(観音柱に当たる白波が美しい)

左京鼻(玄武岩の柱状節理)

はらほげ地蔵

はらほげ地蔵

2014年9月22日月曜日

対馬・壱岐を訪ねて(7) 壱岐 岳ノ辻展望台

  壱岐の最高峰岳ノ辻展望台(標高212、8m)から、壱岐島の四方を見ました。壱岐島は平らな島で対馬が山ばかりなのと対照的です。平地ではコメ作りが盛んなことが分かります。海の向こうには遠く対馬が見えました。また、この地には烽火台跡がありました。663年白村江の戦いで敗れた大和政権は新羅や唐の来襲を恐れ、664年防人を壱岐、対馬に送るとともに烽火で急を大和に知らせるように各地に烽火台を設置しました。これがその一つです。岳ノ辻展望台付近には他にも龍光大神や折口信夫の歌碑などもありました。
岳ノ辻展望台からの眺望(標高212、8m 島内一高い山岳ノ辻からは東西南北が見渡せる)

広い平地には田んぼが広がっている。(対馬が見える)

烽火台(白村江の戦い後664年に築かれた)

龍光大神に設置されていた龍の像


折口信夫の「葛の花」の歌碑

2014年9月21日日曜日

対馬・壱岐を訪ねて(6) 壱岐黒崎砲台跡・猿岩

 次に向かったのは当時東洋一と言われた黒崎砲台跡です。途中壱岐の中心を表すへそ石を通って行きました。黒崎砲台は第一次大戦後軍縮により建造中止となった戦艦「土佐」の主砲を再利用する目的で作られた砲台です。砲身約20m、口径約40cm、射程距離35㎞もあり対馬海峡を通過する艦船を射程に収めていたという。昭和8年につくられたが、一度も使われることはなかったというとです。近くに猿岩がありました。各地に○○に見えるという岩の名所がありますが、そうかな?というのもあります。しかしこの猿岩は本当に猿に見えました。
へそ石(往来の時、ここが壱岐の中心になるということで目標として通行していた。)

黒崎砲台入口(昭和8年に建設された)

黒崎砲台跡(一度も使われることはなかった。)
猿岩(岩の名所の中には?というものもあるが、これは本当に猿に見える)

2014年9月20日土曜日

対馬・壱岐を訪ねて(5) 壱岐 原の辻遺跡・壱岐市立一支国博物館

 9月13日朝壱岐で先ず向かったのは原の辻(はるのつじ)遺跡です。ここは今から約2000年前の弥生時代に栄えた多重環濠集落です。魏志倭人伝に記されている国です。ここは一支国王都復元公園として建物などが復元展示され、当時の様子をイメージできるようになっています。近くに小さな川が流れています。朝鮮半島から大きな船でやってきた人々も、海岸で小さな船に荷物を積み替えてやってきて交易が行われたようです。次に行った近くの山の上にある壱岐市立一支国(いきこく)博物館で、原の辻遺跡の出土物やこの地での人々の生活の様子などが分かりやすく展示されていました。



原の辻一支国王都復元公園(住居や倉などが復元されている)
入口の門には木で作った鳥が取り付けられている(鳥居の元)

見張り台のような建物も見られる。

壱岐市立一支国(いきこく)博物館
一支国博物館屋上から見た原の辻一支国王都復元公園

2014年9月19日金曜日

対馬・壱岐を訪ねて(4) 対馬~壱岐へ

 わずか2時間の対馬観光でした。じっくり見たら3日かかりますとバスガイドさんが言われていました。ツシマヤマネコにも逢いたいし、和多都美神社などにも行ってみたいのでまた是非ゆっくり訪ねてみたいと思いました。厳原港に韓国釜山港行の船が停泊していました。対馬から博多まで76㎞、対馬から釜山まで49、5㎞韓国が近いところだと実感しました。3時25分厳原港を出港するフェリーに乗り壱岐郷ノ浦港へ5時30分壱岐に着きました。
韓国釜山~対馬の客船

対馬ともお別れ

対馬はしいたけとひのきの産地 神社も多い

フェリーで壱岐島へ約2時間

2014年9月18日木曜日

対馬・壱岐を訪ねて(3) 対馬 金石城跡、御船江跡

 金石城は、文禄・慶長の役の際に築かれた金石屋形を、朝鮮通信使を迎えるために、近世城郭に改築したといわれています。石垣や堀切は廻らされましたが、天守は築かれず1669年(寛文9年)に宗義真によって造られた大手口の望楼型二重櫓門が代用されたようです。現在建っているのは1990年に再建されたものです。後、桟原城が作られ藩庁としての機能は移されましたが、途中で火事で焼失することはありましたが明治まで存続したようです。対馬で印象的だったのは、石垣が美しいことです。形や大きさが異なる石を隙間が空かないよう形を整えて積み上げています。(切り込みハギ)武家屋敷の石垣は表面もきれいです。鏡積みというのだとバスガイドさんに教えていただきました。対馬で最後に見学したのは御船江跡です。厳原港の南の久田浦に1663年に創られた人工の入り江に4基の突堤と、5つの船渠がありました。朝鮮との貿易で栄えた対馬藩だけに立派な施設です。
金石城跡(望楼型二重櫓門)1990年再建

金石城跡石垣(大小の石を積み上げた石垣が美しい)

武家屋敷の石垣(形や大きさはさまざまだが、隙間が空かないよう石をきれいに整形している(切り込みハギ)、しかも表面がきれいに整えられている。鏡積みというのだとガイドさんに教えていただいた。)

御船江跡(1663年築造)