歴史さんぽ
2024年9月29日日曜日
東海道53次土山宿から亀山宿まで歩く(10)亀山宿①
野村には旧佐野家住宅がありました。旧佐野家はこの地の大地主で商家でした。入母屋造妻入り形式の建築です。西亀山宿に入ると旧舘家住宅がありました。幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた店で、この家の主屋は明治5年に建てられています。1階がで出格子戸、格子戸を並べ、2階は化粧貫を見せた黒漆喰壁や格子戸など、亀山宿を代表する形式の建物です。亀山は亀山城の城下町でもあります。西之丸外堀や多聞櫓、城の石垣が見えます。
野村東端の旧佐野家住宅
旧舘家住宅(枡屋)
亀山城西之丸外堀
亀山城の多聞櫓と石垣
2024年9月28日土曜日
東海道53次土山宿から亀山宿まで歩く(9)関宿から亀山宿へ
関宿から亀山宿に向かいます、途中東の追分があります。木崎町の東端で、伊勢神宮一の鳥居が建っています。この鳥居はご遷宮の後、宇治橋の南詰の鳥居がここに移されます。昔は大阪、京都方面からはここからお伊勢参りをしたのだそうです。太岡寺畷を歩きます。鈴鹿川の北堤に約2km続く東海道一の長い畷で、春には桜並木となるようです。しばらく歩くと野村一里塚に着きます。1604年徳川秀忠の命しているで造られたもので、樹齢400年と言われる椋の木が立っていました。片側しか残っていませんが見事な巨木で、国の史跡に指定されています。やがて亀山宿に着きました。当時の東海道の宿場の面影をしのばせる町家が残る町並みを歩きます。
東の追分
太岡寺畷
野村一里塚
当時の面影をしのばせる亀山宿の町家
2024年9月27日金曜日
東海道53次土山宿から亀山宿まで歩く(8) 関宿⓸
関宿の築約120年の町屋を利用した旅人宿石垣屋には近隣から集められた小道具が沢山陳列されていました。じっくり見る時間がなかったのは残念でしたが、古いバイクやスキー板などが興味深かったです。
旅人宿石垣屋
近隣から集められた古い道具が展示されている
色々な古い道具達
古いバイク
古いスキー板
2024年9月26日木曜日
東海道53次土山宿から亀山宿まで歩く(7)関宿③
関まちなみ資料館に入館し見学しました。建物は江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋建築の一つです。二階に上がるには階段箪笥を使います。二階は天井の低い部屋でした。かつてはどのように使われたのでしょうか。資料館には昔の道具や関宿の歴史資料、関宿の町並みの移り変わりの写真等が展示されていました。中でも関宿祗園夏まつりの山車巡行で使用される山車(やま)の模型が展示されていました。大きな山車が狭い街道の道幅いっぱいに通り抜けることから、もうこれ以上は無理という時使う「関の山」という言葉の語源になったと言われています。
関まちなみ資料館
階段箪笥
二階
関の山車の模型
2024年9月25日水曜日
和歌山城を訪ねて
和歌山城に行きました。一の橋から堀を渡り、急な石段を上ると本丸跡があり、そこから天守閣が良く見えました。和歌山城は天正13年(1585)、豊臣秀吉が弟の秀長に命じて築城させたのが始まりで、同年秀長の城代として桑山重晴が入り、秀長家が途絶えると桑山氏が城主となりました。関ケ原の戦い後、浅野幸長が入城し、城の整備を進めますが、元和5年(1619)、徳川頼宣が入城し、徳川御三家の紀州徳川家が成立し更に増築し、ほぼ現在の姿になったのですが、天守閣は弘化3年(1846)落雷により焼失しました。4年後に再建されますが、昭和20年(1945)に空襲で再び焼失しました。現在の天守閣は昭和33年(1958)鉄筋コンクリート造で再建されたものです。天守閣の最上階に上ってみると、和歌山の街だけでなく紀の川河口まで良く見渡せました。
和歌山城の堀
本丸跡から天守閣を望む
天守閣(昭和33年再建)
天守閣からの眺め
2024年9月24日火曜日
南紀白浜に行く(2)千畳敷
南紀白浜2日目はとても良い天気となりました。千畳敷に行きました。瀬戸内海とは違う太平洋の濃い青い色が印象的です。案内板によると千畳敷は1800万年前から1500万年前にできた地層が長い間波に洗われて出来たのだそうです。今日も激しい波が打ち寄せています。こうやって長い間には地形が変わっていくのでしょう。岩を見ると美しい模様が浮き出ています。
千畳敷
1800万年前から1500万年前にできた地層が長い間波に洗われてできた
今日も激しい波が打ち寄せる
岩には美しい模様が出来ている
南紀白浜へ行く(1)三段壁
南紀白浜に行きました。曇ってはいるものの、雨は降らず涼しい風が吹く心地よい日となりました。三段壁を見ました。洞窟の中にも波が激しく打ち寄せ迫力がありました。
白波が打ち寄せる三段壁
洞窟の中にも激しくなみが打ち寄せる
2024年9月21日土曜日
彼岸の頃の荒谷林道
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2024年9月20日金曜日
東海道53次土山宿から亀山宿まで歩く(6)関宿②
関宿の町屋には色々な特徴があります。出格子窓は明治時代以降に取り付けられたようです。平入の二階建が一般的ですが、二階前面を土壁で覆い虫籠窓になっています。初めて見たのは風雨から店先を守るために庇の下に取り付けられた幕板です。瓦屋根のついた看板があります。文字は京都側が漢字、江戸側がひらがなになっています。
出格子窓
虫籠窓
幕板
庵看板(江戸側はひらがな)
庵看板(京都側は漢字)
2024年9月19日木曜日
東海道53次土山宿から亀山宿まで歩く(5)関宿①
2日目は坂下宿から亀山宿まで歩きました。途中の関宿は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、江戸から明治に建てられた200軒あまりの古い町屋が今も残っています。関宿に入って先ず目に付いたのは漆喰細工です。鶴、亀、虎、鯉の滝登り、龍等縁起の良い細工が施されていました。
関宿の古い町屋が残る町並み
漆喰の細工(鶴)
漆喰の細工(亀)
漆喰の細工(虎)
漆喰の細工(鯉の滝登り)
漆喰の細工(龍)
2024年9月18日水曜日
東海道53次土山宿から亀山宿まで歩く(4) 鈴鹿峠を越える
いよいよ鈴鹿峠を越えます。西から行くと道は緩やかに登っていますが舗装もされています。峠には万人講常夜燈が建っています。この常夜燈は約270年前に四国の金毘羅神社から移されたとされる物で、高さ4m、重さ38tもあるそうです。そこを過ぎると道は森の中に入っていきます。八町二十七曲がりと言われる曲がりくねった急な下り坂を下ります。未舗装で、所々石畳になっています。滑らないように気を付けて歩きます。昔は追いはぎが出没し、旅人を悩ましたという記録がありますが、今はヒルが出るというので、素肌を出さないよう気を付けて歩いたのですが、靴の上から足首をかまれていて、血が止まらず困りました。昔もヒルはいたと思いますが、蚊やヒルにかまれるのは日常的なことなので、敢えて記録されなかったのかもしれません。途中片山神社がありましたが、社殿は焼失してしまったそうです。坂下宿に着きました。大竹屋などの本陣跡はありますが、今では草原や空き地になっています。
鈴鹿峠西側
万人講常夜灯
鬱蒼とした森林の間の未舗装の道を歩く
曲がりくねった急な下り坂が続く
片山神社
坂下宿大竹屋本陣跡
2024年9月17日火曜日
東海道53次土山宿~亀山宿まで歩く(3)田村神社
旧東海道田村神社の一の鳥居を潜って参道を進みます。そしてニの鳥居前で東に曲がります。鳥居前にはユニークな顔の狛犬が居ました。毛もカールしています。
旧東海道は田村神社の参道を通る
二の鳥居前で道は東に曲がる
狛犬(吽形)
狛犬(阿形)
2024年9月16日月曜日
東海道53次土山宿から亀山宿まで歩く(2)土山宿②
土山一里塚は跡形もありません。ただ民家の前に石碑が建っています。少し宿場町であった名残りの町家が残っています。東の芭蕉、西の鬼貫と言われた俳人上村鬼貫の句碑が建っていました。句にある櫛は土山はお六櫛と言って櫛がお土産品として人気だったようです。宿場を過ぎると旧東海道の脇には茶畑が広がっています。土山はお茶の名産地です。
土山一里塚跡
昔の町家が残っている
上島鬼貫の句碑
土山は茶の名産地
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