2014年2月28日金曜日

安芸高田市吉田を訪ねて(6) 商店街

 吉田の商店街に行ってみました。新町を通って胡神社に。広島市胡町にあるあの胡神社はこの神社を分祀したものです。吉田の商店街はかつて郡山城の城下町として、また県北の商業の中心として栄えたところですが、今はすっかりさびれ、シャッター街となっていました。寂しい思いで歩いているとシャッターに吉田高校や吉田中学校の生徒が絵を描いていました。私の気持ちも少し明るくなりました。若者の力で吉田の商店街に活気がもどることを願わずにはいられません。
胡神社(毛利元就が郡山城の城主であったころ、鎮座した。この神社を広島市中区胡町の胡神社は分祀した。)

ウダツのある家(吉田の商店街はかつて県北の商業の中心として栄えた。)

今はすっかりさびれシャッター街になったが、そのシャッターに吉田高校の生徒が絵を描いている。

吉田中学校の生徒が描いている。

2014年2月27日木曜日

安芸高田市吉田を訪ねて(5) 高林坊銅鐘

 吉田の商店街の一角に高林坊という古刹があります。この寺には南北朝時代に作られた広島県の重要文化財に指定されている銅鐘があります。お寺の方のお許しを得て、鐘楼門の二階に上がり、銅鐘を見せていただきました。比較的小振りな銅鐘ですが、池の間に銘があり、鎌倉時代から室町時代にかけて活躍した丹治鋳物師の姓が見られます。竜頭は双頭の竜が笠形から出た棒を噛み、上に宝珠が乗っています。芸藩通志に甲立の石室寺にあったものを、石室寺荒廃後宍戸氏の所有となり、陣鐘として利用していたものを、当寺に寄進したものと書いてあるそうです。
高林坊鐘楼門

高林坊銅鐘(県重要文化財)建武2年(1335年)鋳造

竜頭(たてがみの端がそろって上方にたなびき、上唇は短く突き出して笠形から出た棒を噛んでいる。)

鐘の駒の爪部

2014年2月26日水曜日

安芸高田市吉田を訪ねて(4)へらほりの池

 安芸高田市市役所の近くにへらほりの池跡があります。現在は埋められて池はありませんが、福祉の原点のような池です。寛文・延宝の頃(1670年代)次々に起こる災害で吉田の人々が困窮していました。それを見かねた土地の豪商竹野屋 河野与三郎は、莫大な私財を投じ、竹べらと小さなザルを使って、多くの人手と日数をかけて泉水を掘らせることで、困窮している人々を救ったということです。ただ現金や食べ物を施すより、素晴らしいアイデアですね。
へらほりの池跡(現在は池は埋められている。)
へらほりの池図(この泉水のある広い庭には藩主も訪れ休息したという。)

2014年2月25日火曜日

安芸高田市吉田を訪ねて(3) 土生玄碩

 吉田の輩出した人物は毛利元就だけではありません。郡山公園に土生玄碩の碑があります。土生玄碩(1762~1848年)は、吉田の出身で江戸時代後期将軍徳川家斉に召され、江戸幕府の奥医師を務めた眼科医です。シーボルトに葵の紋服を贈るという国禁を侵してまで眼病治療の薬や治療の情報を得る(シーボルト事件で投獄される)など眼の治療法の向上に努め、西洋眼科の始祖といわれています。
 
土生玄碩の碑

土生玄碩の生家の建物は吉田名物菓子「毛利公」販売店

2014年2月24日月曜日

安芸高田市吉田を訪ねて(2) 郡山城に登る

  毛利元就の墓所から本丸まで800mです。石畳の道もありますが、急な坂道になったりします。息を切らしながら登っていくと釣井の段があり井戸がありました。籠城の時は命の水だったことでしょう。三の丸、二の丸を経て本丸跡につきました。木があって見晴らしは良くありませんが、毛利元就も同じ土を踏んだのかと思うと感慨深いものがありました。
郡山城本丸への道(急坂を登らなければならない場所もある。攻めるのは大変だったろう。)

二の丸跡

釣井の段にある井戸(事故防止のため柵と金網がしてあり中はよく見えない。山城にとって水の確保が重要だったことだろう。)

本丸跡(木が周りに立っていて、見晴らしは良くないが、同じ土を毛利元就も踏んだのかと思うと感慨深かった。)

城跡には新しい命が生まれている。

2014年2月23日日曜日

安芸高田市吉田を訪ねて(1) 

 「毛利元就と井上一族」と題した講演会があることを知人に知らせていただき安芸高田市の吉田に行きました。天気が良かったので講演会前に清神社、毛利氏の墓地を通って郡山城に久しぶりに登りました。子どものころから、何度か登ったことがあったのですが、随分整備され、説明版が設置されており城の様子がよくつかめました。
まずサンフレッチェの旗がはためく清神社にサンフレッチェJ1優勝のお礼参りをした。

三矢の訓跡(史実ではないが、この地で毛利元就が三子に三矢の訓話をしたという。)

毛利元就の火葬場跡

毛利隆元の墓

毛利元就の墓

百万一心の碑
(元就は城拡張の際に、それまでの風習であった人柱に替えて「百万一心」と彫らせた巨石を埋めたと伝えられている。実物ではないが、江戸時代にとられたという、その拓本を模刻し建設したもの。一日一力一心とも読める。)

2014年2月22日土曜日

不動院を訪ねて(5) 点描

 不動院には見どころがたくさんあります。明治時代に建てられたという十三重の塔やたくさんの宝篋印塔があります。宝篋印塔はいろいろな時代のものが見られ、時代ごとの形の変化を確かめることができます。こわれた墓石などが集められた場所に六角柱に仏様の像を浮き彫りにしたものがおいてありました。美しい紅梅が咲き始めていました。
不動堂から金堂、楼門を見る
塔の丘には十三重の塔やたくさんの宝篋印塔がある

仏様を浮き彫りにした六角柱の石

紅梅が咲き始めていた。

2014年2月21日金曜日

不動院を訪ねて(4) 不動院ゆかりの人々の墓

 不動院墓地には豊臣秀吉の遺髪墓、恵瓊、福島正則、武田氏という不動院ゆかりの人物の墓があります。秀吉の遺髪墓は五輪塔です。火輪の端が欠けています。これは風化ではなく、何者かに削られたものです。秀吉は戦乱の世に生きながら運が強く、長寿を全うしたことからか、秀吉の墓のかけらをお守りにすると戦死しないというジンクスを信じてひそかに削られたものだそうです。  戦場に向かう人、見送る親族の人などの生きて帰りたい、帰ってきてほしいという強い思いが伝わってきて、胸がつまりました。戦国の世を懸命に生きた人々の墓がこうして一か所にあるのを見て不思議な気持ちになりました。この人たちは墓の下で今の世を見てどんなことを話し合っていることでしょう。
秀吉の遺髪の墓(五輪塔 火輪の端が欠けている。秀吉の墓の石をお守りとすると戦死しないとか。)

恵瓊の墓(卵塔)

福島正則の墓(宝篋印塔)

武田刑部少輔の墓(五輪塔 誰の墓なのか不明)

2014年2月20日木曜日

不動院(3) 金堂

 不動院金堂は広島市内で唯一国宝に指定されている建物です。天文9年(1540年)の建築ですが、天正年間(1573~1592)に安国寺恵瓊によって、山口の凌雲寺から移築された建物のようです。剣の先のように鋭く反った屋根の軒先、裳階、扇垂木など典型的な禅宗様(唐様)の建築です。杮葺きですが、今回の修理で一部葺き替えられたようです。
美しい金堂屋根(杮葺き 鋭く返った屋根の軒先、屋根の下の組物が三手先で尾垂木の端が削られ鎬になっている。)

金堂鬼瓦(龍の造形が素晴らしい)

金堂正面入口上部

金堂屋根裏扇垂木、組物

2014年2月19日水曜日

不動院を訪ねて(2)楼門

 不動院の楼門は文禄3年(1594年)に建てられた禅宗様式の二重門で重要文化財に指定されています。両脇に仁王像があります。この仁王像は永仁2年(1294年)鎌倉時代の作。体の隅々まで力ががみなぎっています。鋭い目は迫力があります。弱い心を見透かされそうです。補修してある柱にも長い時の流れを感じます。
禅宗様の不動院楼門(三間一戸二重門)

仁王像(阿形)永仁2年(1294年)鎌倉時代作 迫力のある鋭い目

禅宗様式の組み物

長い時の流れを感じる柱

2014年2月18日火曜日

不動院を訪ねて(1)

 広島市東区の不動院に久しぶりに行ってみました。不動院は今NHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」にも登場している毛利氏の使僧として活躍した安国寺恵瓊が住持を務めた寺です。不動院の前身は、14世紀中頃、足利尊氏・義直兄弟が国ごとに建立した安国寺であると言われています。16世紀中頃、武田氏の滅亡後、寺勢は一時衰えましたが、その後、恵瓊が住職となってから、堂塔を再建整備させたため、寺勢は再び盛んとなりました。不動院金堂、楼門、鐘楼は1945年8月6日の原爆投下にも耐えた被爆建物です。国宝の金堂を始め、文化財に指定されている貴重な建物が焼失を免れ、現在こうして素晴らしい姿を見ることができることはありがたいことです。ちょうど修理中でした。今年の秋には修理が終わるのではないかと、お寺の方が言っておられました。人類の宝として今後もしっかり保存していきたいものです。


不動院楼門(爆心から3900m被爆建物)文禄3年(1594年)の建築 重要文化財

不動院金堂(被爆建物)天文9年(1540年)の建築 国宝


鐘楼(被爆建物)永享5年(1433年)の建築 重要文化財

2014年2月17日月曜日

三猿

 広島市内のとある居酒屋に行ったところ、店内に三猿がいました。三猿というと日光東照宮が有名ですが、世界各地にあり、いろいろな意味を持つようです。私は三猿をむしろマイナスにとらえていましたがなかなか深い意味があるようです。日光東照宮のものは猿の姿を借りて人の一生のあるべき姿を表現しているものの一幕で「子どものころは悪いものを見ない、悪いことを聞かない、悪いことを言わないで素直なままに育ちなさい。」という意味があるようです。残念ながらまだ日光東照宮に行って実物を見ていないので、是非この目で見てみたいと思っています。


居酒屋さんに居た三猿(見ざる 言わざる 聞かざる)

2014年2月16日日曜日

傘山に登る

 大竹市にある傘山(649、9m)に山の仲間と登りました。登るにつれて、登山道に雪が残っており滑って登りにくくなりましたが、天気が良く気持ちの良い登山となりました。
登山道から傘山を望む

登山道の見晴しの良い場所から大竹方面を望む。


雪が残っている道を滑らないように用心して登る。

傘山山頂(649、9m)には雪が積もっていた。

2014年2月15日土曜日

安佐南区祇園界隈を巡る(4) 熊野神社

  熊野神社に行きました。この辺りに家屋を建てるとよく火災が発生するので天文年間(1532~1555年)に領主武田氏が社殿を創建し、ご祭神を勧請して祭礼を行ったところ、火災が起こらなくなったので、住民は火防の神として篤く崇敬したということです。この神社の本殿は1945年8月6日の原爆投下にも耐えた被爆建物です。境内にある天保7年(1836年)奉納の石灯籠の土台石には盃状穴が見られます。何のために彫られたのか謎ですが、何らかの願いを込めて彫られたのではないかという説があります。
熊野神社(通称新宮社)

熊野神社本殿(被爆建物 爆心地から4800m)

天保7年(1836年)奉納の石灯籠

石灯籠の土台石には盃状穴が見られる。何のために彫られたものだろうか。