城下町としての川越は1457年、太田道真・道灌父子が川越城を築いた時に始まります。太田道灌像が川越市役所の前に立っています。左手には弓、右手にはヤマブキの枝を持っています。太田道灌と言えば狩の途中で雨に降られ農家で蓑を借りようとしたが、応対に出た娘はただヤマブキの枝を出すばかりであった。訳が分からない太田道灌は怒って城に帰り古老にその話をしたところ、それは貧しいため蓑が一つも無いことを「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」という古歌に例えたのだという事を知らされ、自らの不明を恥じ、その後歌道に精進したという逸話からでしょう。太田道灌は川越城築いた後江戸城も築いています。川越城は軍事と政治の要所として幾多の歴史を重ねますが江戸時代には幕府の重臣の松平信綱や柳沢吉保なども城主を務めました。明治維新後川越城は破壊されましたが本丸御殿は残されました。本丸御殿が残っているのはこの川越城と高知城だけだそうです。城のまわりには中ノ門堀や富士見櫓跡もありました。
太田道灌像
中ノ門堀
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